栗野岳 と 私
栗野岳の 開拓 山中生活 も 今年で 47年に なる。
あの 敗戦の 飢餓状態の中で 私は 日本農業中 最も遅れ 取り残されている 山の
農業開発を 自分の ライフ・ワークとする 事を 決意したのである。
先ず 北方農業 並びに 酷びしい 山の生活体験 を すべく、北海道の 放浪から 始めた。
そして 昭和27年 早春 現在地 栗野岳に やっと 辿り着く事が 出来た。
既に 六年の時間を 空費していた。 併しながら、その間も 片時も 初心を
忘れることは 無かった。
これが、それまで 全く未知であった 栗野岳 と 私の
素晴らしい 「出会い」であった。
そして 入山が 決まった その時、私の 身心中に、生涯 この山を 出ることは無く、
又 この山に 骨を埋める 念いが 不動のものに なっていたのである。
しかしながら 栗野岳の 自然は 想像以上に 厳しく、私の 初心を 恰も試すが 如く、
次から次と 苦しい日々の 連続であった。
徹底的に 打ちのめされ 三年経った時、初めて 霧島山系には 過去の日本農業を
拒否し続ける 海抜500m線の ある事を 発見したのである。
それは 猛烈な台風・霧島の濃霧、加ふるに 野猪の巣窟 等 の 為めである。
以降10年間 これ等 災害克服の 戦の日々が 続いた。
そして 全ての災害から 安全な
高原の 「草地酪農体系」確立 と なったのである。
その間の事を 私は 書いている。
「苦しみの日々、歓びの時々、いずこからともなく 聞こゆ、それでもなおと」
いくらか 人間に近い 生活が 出来るようになって 初めて 自分を取巻く 栗野岳の
自然に就いて 考えるようになった。
それは 厳しくも 又こよなく 美しいものへの 発見である。
山 高きが故に 尊からず。 山は そこに住む人の 山に対する 思いによって、種々に
その価値を 異にする ものである。
或は 単なる遊びの場か 或ひは 自然探訪の山、或ひは 崇高な霊山にも なり得るのである。
私にとって、この山こそは 生涯を賭けた 「誓願の山」であり 又 骨を埋める 青山 でもある。
そして 四季 それぞれに 移り行き 展開される 栗野岳の 「全体自然」こそは
清々しくも 又 無限に 広く 深く、歓びと、静かに 考える場を 与えてくれた
私の全べて であり、
師であり 神々にも等しい絶対 へと なって行ったのである。
年を 取るにつれて この山に対する 私の思いが 感謝へと 変って行くのを 感じ、
後々までも 美しい山であるよう
又 多くの人々が この山の自然の 素晴らしさを
知り 愛するよう 願はずにはいられない。
そして 自分の生涯の 最後に この山への 恩返しとして 何かを 為さねば と 思う 今日この頃である。