自然観の いろいろ




私の 住んでいる所は 栗野岳です。霧島国立公園の 普通地域と いわれています。
日本の 国立公園の 制度は 昭和9年に 始まりました。第一に 国立公園に 指定されたのは、霧島と 雲仙と 瀬戸内海 です。
その後、大雪山・阿寒・日光・ 中部山岳地帯・阿蘇 が 国立公園に なりました。 それから 四つほど 指定され、 現在では 28ぐらいに なっています。
最後に 指定されたのは 釧路湿原です。 私は 釧路湿原の 奥にいたので、荒らされなければいいが と 思っています。

この 国立公園の 制度は、アメリカから 生まれました。
アメリカは 開拓の国で 彼らは 開拓民族です。アメリカ大陸は、東から あっという間に 西部まで 開拓されてしまいました。
このままでは 大陸から 自然がなくなってしまう ということで、国立公園を 設けました。
今から 123年前に、ワイオミングの イエローストーンが、その 第1号となりました。
その後 いろいろな所が 国立公園と なりました。アメリカの 国立公園は、自然を守る、自然を残すために 始まっています。
アメリカの国立公園には、観光施設を 作れないこととなっています。

では、日本の国立公園は 何のためにあるのでしょうか。あるいは 屋久島の 世界遺産は 何のためでしょうか。
決して 観光のためでは ないはずです。国立公園になった 途端に 入り込むのは 観光開発です。
私の住んでいる 国立公園でも、原生林が残っているのは 特別地域だけの わずかなものです。あとは 全部 杉・桧に なってゆきました。
国は 国有林を 全部 杉にしてしまいました。アメリカに 62年遅れて始まり、しかも 始まったと同時に 観光化されました。
そして 指定されたがために、かえって 自然は なくなっていってます。

しかしながら、人間という 哺乳類は、地球の 長い 生命の進化の 歴史の中で、最後に 生まれてきたもの です。
人間が 歴史を作るようになって、まだ 5、6千年です。特に 近代科学は、生まれてたった 2、3百年 です。
しかも 人間は 大量にエネルギーを使い、 いろいろな問題を 引き起こしています。
けれども、人間は 自然のままでは 生きていけません。これは 厄介です。
人間以外の 動物は、自然でなければ 生きてゆけません。これは 大きな違いです。
人間は 自然を開発しなければならないと 運命づけられています。そのために 滅びる動物がいるなら、やはり 保護してやらなければと 思います。
いろんな保護運動が 行われていますが、素晴らしいことだと 思います。 そうでなければ、人間が 大切な 動・植物を 全滅させてしまいます。
現に 日本から、 「トキ」は とうとういなくなってしまいました。鹿児島でも 奄美のクロウサギが 問題に なっています。クロウサギでさえ、4000万年前から 生きているのです。
そういったものたちを 全滅させていく 人間は、あまりにも 横暴ではないでしょうか。
特別天然祈念物に 指定し、守っていくことは 必要なことだと 思います。

ところで、「自然と人間の共生」「自然と人間の共存・調和」と 聞くことがあります。 私は この言葉に ひっかかりを感じます。
自然と人間が 共に生きる、あるいは調和というと、 自然と人間が 同格で対等の 考え方です。自然とは、そのように 小さなものではありません。
また人間も そのように大きなものでも ありません。人類とは、42億年の 長い地球の 歴史の中で、また 32億の生物の 進化の中で、一番最後に 地球上に生まれてきた 一つの哺乳動物に 過ぎないのです。
自分たち人類を 産み出してくれた 大自然に対して、 調和とか 共生だとかいうのは、本当に おこがましい思い上がりだと 思います。
私は 「自然は 絶対で、それは 征服するものにあらずして 従うべきものだ。」と 思っています。
猪や台風に ひどい目にあいましたが、自然に教えられ、また 自然に教わろうという 気持ちでいます。

先頃、栗野町議会で 昆虫採集禁止法条例が 可決され、話題となりました。現在の町長に 聞いてみると、次から次に 手紙や電話が 寄せられるそうです。
その7割が 条例に賛成で、 3割の人が 反対だそうです。反対派の意見は、昆虫は 何匹採っても増えるのだ ということでした。
そのようなことは 絶対ありません。条例が できようができまいが もはや関係ないのです。
栗野岳は、昆虫採集では 日本で 有名な山でした。私が 山に入った頃 は、体に当るぐらい 蝶がいました。今年などは、めったに 見ません。 他の昆虫も 然りです。

テレビなどで、6月の頃に 屋久島のシャクナゲが 数十年来のうちで 一番美しいと 報道されていました。シャクナゲ ばかりでなく、山の木に咲く花 は、今年ほど 美しかったことは 過去にありません。
最初に、春は 杉の花粉が 多量発生しました。 それは 杉の花が 一杯ついたからです。私の家の周囲の ミヤマキリシマも 近年にない 美しさでした。また 大事にそだてている ヤマボオシの花も 見事なものでした。
これはどういうことかと 考えますに、昨年の 大旱魃で 植物自身が、自分の種が 亡びるのではないかとの 危機感をもち そうさせたのだと 思います。
植物自身が、 自分たちの種を守る 本能を持っているに 違いないと 思えるほどでした。
柏林の 日本列島での 南限は 栗野岳です。栗野町では この柏を 非常に大切に していますが、 過去において 落ちたドングリが 自然に芽を出した 確率は 非常に少ないのです。
しかし 今年だけは 落ちたドングリから たくさん 芽が出ました。とても 不思議な現象で、 間違っても 刈らないように 一本一本 棒を立て 育てることにしました。
植物は 自分の種を守る本能が 強いのですが、虫は 弱いものです。これも 旱魃の影響だと 思いますが、今年ほど 虫の少ない 年は ありませんでした。
しかし 自然というのは、不思議なもので、時期がくれば 渡り鳥が やってきます。 私の山には、毎年 カッコウが やってきます。日付まで 5月18日と決まっています。 違っても一日か二日くらいです。

さて みなさんは、今西錦司という方を ご存じでしょうか。文化勲章を受けた 自然学者で、 今西自然学を 作った人です。
今西博士は、ダーウィンの進化論に 真っ向から 反論しました。 ダーウィンの 進化論は、いろいろな種は 変化してゆき、強いものが生き残る 自然淘汰・適者生存説 です。そして、新しい種ができるのは、突然変異によってだ ということです。
強いものが残り、弱いものが滅んでゆく 進化論は、 まちがっているのではないかと 今西博士は 考えました。
お互い 仲よくして、共存しながら 生きているという 共存の原理を 考え出しました。ダーウィンは「競争」で、今西博士は 「共存」です。
種を形づくる 社会があり、その種が 集まって、全体社会・全体自然が つくられていて、 それらは みんな仲よく生きてる ということです。
そこには 生物の 住み分けがあり、 時が経たば、みんなで一緒に 変化していきます。自然は 全体で一つ というのが、 今西博士の考える 自然です。
自然の中の 一つ一つの現象を とりあげ、研究するのは 自然科学です。それも 大切なことですが、すべてを包含した 大きな自然があると 考えられました。
全体自然 ― 自然は 全体で一つなのだ というのは、今西博士の 自然論でしたが、私は この生物学から 大きくとらえて、地球の四季感、そして宇宙など とり入れた 大自然 が あるのではないか と 考えます。





この章 終わり



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