都市の文化 と 農村の文化




私は、今回の阪神大震災で、都市の文化と 農村の文化について 考えさせられました。
大震災で、大都市は 壊滅状態と なりました。大きなビルは 横倒しとなり、道路や 鉄道・港湾や ガス・水道に至るまで 全てが 壊れました。これらは 全て 人口のもの です。
それは だんだん 大型化して ゆきました。そして それに伴い 四季感が 失われて いきました。
一方 農村の文化は 農業が 第一 です。
農業には 稲作・畑作、畜産 また お茶づくりと いろいろ あります。 しかし 全てにおいて 共通することは、生きているものを 育てる ということです。
みな 生命のあるもので 四季感があります。春夏秋冬の 四季によって 作付けされ 収穫されます。
そうなると、四季の変化に対する 恐れや祈り、あるいは 豊作を感謝する「秋祭り」が 生まれます。
私は、農業から生まれた「祭り」によって、 民族の 伝統的な文化が 育まれてきたのだと 思います。
民謡は 大部分が 農民のものです。 だから特に 東北へ行くと、農民の 労働の歌や 生活の歌、そして 豊作を祈り 感謝する 謡が たくさんあります。
日本の文学では、月・花・雪 が 昔から テーマの第一 です。 俳句には「季」があります。歳時記という本まで あります。絵画にも 季節感あふれる 山水画が見られます。日本人は、四季感を 生活の中にとり入れた 民族です。

さて、今 どこの町でも、いわゆる「村おこし」ということを 聞きます。
日本中に、 立派な 文化ホールができたり、音楽室ができたり しています。それらが、100パーセント 活用されていないのが 現実です。
私は、日本の 村おこしの主流は、農村の都市化である という風に 感じています。
また、今日 我が国では、アウトドアが ブームです。自然の中に 出かけるということですが、どうも 出かけ方が 下手なのです。
キャンプも ずいぶん 山の中まで 入っていきますが、みていると カラオケまで持ち込んで ガンガンやってます。
驚いたことに、テントの中で、川のせせらぎがうるさいとか、カエルの鳴き声がうるさくて、 眠れない ということを 聞いたことがあります。
昔に比べ 有給休暇が増え、バカンスが 増えました。しかし この バカンスの過ごし方を、私たち日本人は わからないのだと 思います。

私は 昭和60年に 町長となり、2年経ったときに、農村振興協会で ヨーロッパの農村を 調査し勉強する ツアーがあり、これに 参加しました。
私は このツアーに あるテーマを 持っていきました。それは、私が 高原農業をやってきた 人間ですから、スイスの 畜産農業を 徹底的に調べることでした。
夏になると 海抜2500メートルの所まで、 大昔から今日まで、農家の人が 牛を連れて アルプスの山の中へ入って、牛と一緒に 生活しています。
昔は 乳を搾り、それを 山でチーズに加工し、冬が近づくと 馬の背にチーズをのせて、牛を追い 下ってくる といった 生活でした。
現在は 交通機関が発達し、搾った乳は 毎日 下の工場まで 持って行きます。
日本の農村は だいぶ 変化したので、世界中で 最もきびしい 農業の一つと考えられる アルプスの農業も、きっと 変っているだろうと 思っていましたが、行ってみると 全然 変っていませんでした。

彼らの 考えの基本は、彼らの アルプスに対する 愛であると 知りました。
いかにして、 アルプスの美しさを 永遠に保つことができるか が 基本になっているのです。
私の始めた 山の酪農というのは、いかにして 食糧を得、あるいは 経済的に儲かるのか といった 具合でした。
ところが アルプスの畜産は、アルプスを 永遠に美しく保つには、 1ヘクタールには 何頭の牛が 放牧されたときに、伸びる草の量と 牛が食べる量との バランスが ぴったり合うか、そしてまた 遠くから眺めたときに 何頭の牛が 放牧されていたら、最もきれいに見えるか といった ふうなのです。
そうなると、経営を 大きくすることは できません。現代の 経済中心の 世界では 困ったことになります。
しかし、アルプスの美しさを 保ち、経済とのバランスを 保つために、国は 農家が 困らないように、あらゆる制度を設けて 彼らを援助し、そうして アルプスが 永遠に 美しさを失わないように 努めているのです。
これには 私も 驚かされました。

次は、ドイツに 入りました。統一される前の 西ドイツの方 でした。目的は、ドイツの 農村の美しさを 知るためです。
ドイツは 日本と同じ 敗戦国です。戦前は、 花壇コンクールが 非常にさかんだった そうです。
1961年、戦争が終わって 16年後に、農村全体の美しさを 競う コンクールが 西ドイツで 始まりました。
それには 参加資格があり、人口3000人以内 の 小さな農村、あるいは 1集落 と なっています。
しかも そこに温泉があっては いけません。純然たる 農村の美しさを 競う コンクールなのです。1年おきに行われ、郡の審査、州の審査、そして連邦の コンクールがあります。

私は、1973年に 連邦コンクールで、金賞をとった ビルゲンドルフという スイスに近い、ドイツで 一番南の方にある、美しい小さな村の 民宿に入りました。
ドイツに行くまでに、「農家で休暇を」という 国の政策が あることを 聞いていました。 日本で 昔言われた 農休日のことかと 思っていたのです。
全く 違いました。ドイツでは、 都会の 生活者が、バカンスは 農村へ行って 農家で暮らすことが 行われていました。
そのために 農家は 民宿をやります。それは アパート形式で、国が援助して、各部屋に バス・トイレをつけ、炊事施設を 設けています。
一家みんなで やってきて、静かに バカンスを 過ごすのです。付近に 温泉や観光地が あるわけではありません。
そこで 読書をしたり 編み物をしたり、時には ドライブに行ったりも します。彼らは そこで 都会生活の 疲れをいやすのです。
農家にとっては、アパートを 貸すようなものです。
私の入った ビルゲンドルフの 民宿は、三日間の 滞在だったので、食事は 準備されました。
決して 大きな収入ではないのですが、こんな楽な仕事はない ということでした。しかも バカンスは長く 平均2週間で、一回来たら ほとんどまた 訪れるそうです。
農家の人が 言うには「農村というのは、単なる 食糧生産の場、農民の生活の場 だけではないのだ。 我々民族の ふるさとなのだ。そして 民族全体の 憩いの場なのだ。」ということです。
この考え方は 徹底されていました。農村が 美しいのは 事実でした。コンクールの 名前を 日本語に訳すと 「我が村は美しく」です。

以前の 私の町の スローガンは 「暴力追放の町」でした。これでは いかにも 暴力の町を アピールしているようだったので、非常に 不満に 思っていました。
そこで 帰国すると 早速 これだということで、「我が町は美しく」という 宣言文を 9つの地区の 公民館で 訴えました。どの会場でも、集まっている町民が 拍手してくれました。
それで 私の町の スローガンは 「我が町は美しく」に 決まりました。これは 私が町長を辞めてからも 永久に残るのではないかと 思ってます。
現代の日本と 欧米を 比べてみて、欧米の人たちの方が 自然主義だと 思われます。
前にも 述べたように、日本でも バカンスが 増えてきました。まだ 過渡期だとも 思います。 いい方向で 進められていけばと 思います。






この章 終わり



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