開聞昔話 - 関東かいもん会

 

薩摩一の宮 枚聞神社由緒記

開聞宮(枚聞神社)

枚聞神社は、ずっと古くから開聞山麓に鎖座したお宮で、千年位前の「三代実録」という本には「開聞」と書かれ、延喜式という本には 「枚聞」とあるので、開聞宮という名が枚聞宮より古くから呼ばれた名であると思われます。

しかしいずれも「ヒラキキのミヤ」と読むことにはちがいないようです。開聞宮にはまた別に「ワダツミノミヤ」という名もあったとい うことは、前にも書いた通りです。

枚聞神社は「正祀一座大日霊貴命(天照大神)外配祀八座」とあって、古く「開聞九杜」といわれ、御本殿のほかにハつのお杜があった のですが、明治初年の廃仏毀釈によって、これらハ社は本宮に合祀されたということです。

その時ハつの社殿や御神像は取りはらわれ、或いは焼き捨てられてしまったのだそうです。
 
貞観十六年の開聞岳大噴火前、鳥居ケ原にお宮のあった時の杜殿の配置は図のように、本殿を中心に東ヘ
荒仁宮(祭神-大己貴命)約五十センチ木体立像
天井宮或は弟姫宮(祭神玉依姫)約五十センチの木体座像
姉姫宮(祭神-豊玉姫)同じく木体座像
聖 宮(祭神-塩土老翁)同じく木体座像
東 宮(祭神I彦火々出見命)約八十センチの木体座像
の杜殿が並び、本殿から西ヘ
懐殿宮、或は廻殿宮(祭神―潮満珠・潮涸珠のニつの珠を約六十センチ宝塔に納む。
西 宮(祭神-天智天皇と皇后)約八十センチの木休座像
  Oしかしこのお宮は慶雲三年二月に、‘後から建てられたと記されております。
酉宮と離れて、’向きを束にして
三二龍宮(祭神-地主神海神豊玉彦夫婦二神)三十センチの木体座像等がならび建ってい゛たらしいのです。

本殿には、祭神国常立神、大日霊責、猿田彦大神の三座を祀り、女神の木体一座と大小七座の木像があったということです。

大きな鳥居を入ると、棲門があり、その東西両側にこれらハ社をかかえるようにして本宮がある姿が、絵図に残っております。
 
噴火のため指宿へ避難され、復帰の後は現在の地に神社が新築移耘したのだそうですが、脇宮の位置はすっかりかわっています。

中央に神殿、神楽殿、拝殿、勅使殿、東長庁、西長庁、鳥居と、現在と変りませんが、神殿の並びに、東に東宮、西に西宮。東宮の東方 に南北に並んで天 井宮、姉姫宮、荒仁宮、西宮の酉方に、また南北に並んで廻殿宮、二龍宮、聖宮と建ち、一の鳥居は約二百メーキル北に「トリイシ」と いって鳥居の礎石が両側 に残っていたのですが、県道拡張工事のためとりのけられてしまいました。

そのわきに地蔵堂もあったというのですが、これは廃仏毀釈の時とりこわされたらしく、県道工事の時、大きな仁王石像の一部も土中か ら出て来たのですが、多分東の崖下にころがし込まれてしまったのでしょう。

枚聞神社には、大正の頃まで正面のみでなく、現在の東西長庁のところに、それぞれ石段を昇る入ロがあって鳥居が建っていましたが、 東入口は形だけ 残って通用ロになっており、西口はその影もありません。東西長庁前の手洗鉢のあるところあたりには、たくさんの数の石燈龍が並んでい ましたが、どこへ取り のけてしまったものやら、今は全く影さえ見えません。いたるところの神社を廻てってみて、古い猷進燈龍の並び立っている姿を観るにつ け、枚聞神社の保存の 悪さに驚かざるを得な。い気持です。

開聞宮勅定による古法

むかし日本の神社祠官は京都の吉田家の管下にあって、神官の任命も京都から受けることになっていたのだそうです。でも開聞宮だけは 勅旨をもって定められ、神楽、祭服、装束なども、開聞神社古米伝わる勅定の古法が守られていたということです。

そうしたことから、京都に行って官位官名を授かったということはなかったということです。ところが今から三百余年前に、祠官仁右衛 門という人と、そ の弟の半助という人が、鹿児島の諏訪神社の社主、字宿若狭という人に誘われて、伊勢参宮を理由にひそかに京都の吉田家に行って任官を 受けたということで す。

仁右衛門は郷里に帰って間もなく死に、その母、弟妹五人はたちまち狂い出して死ぬ、半助は京都で発狂し、ついにその妻子家僕まで七 人が同時に死んでしまい、ただ三才になる男の子が一人残るだけになったという、悲惨な事がもちあがったのです。

ちょうどその時ヽ利永にすまいする巫女が急に神がかりになって、神のお告げとしていうことに「仁右衛門兄弟は、開聞宮神官の法式を 犯かし、吉田から 任官を受けたので、神罰がその一族に及んだのである」と叫び出したので、はじめて兄弟が神法を犯かしたことがわかってしまいました。

そのことを聞き知った神杜の祝官や、瑞応院の和尚快周法印は、開聞宮の神前にその罪を詫び、誓って再び神法を犯すようなことはしま せんから、残っている一人の男の子だけはお助け下さいと祈ったところが、その子一人か生き残って成人し、家業を継いだという話です。

何はともあれ、開聞宮は阜くから朝廷の尊崇も高く、勅旨をもって神法が行われていたお宮であったということを物語る話であろうかと 思われます。

和多都美神社(綿積神社)

開聞宮を和多都美神社ともいいました。これはヽ開聞宮の脇宮として祀られてある神に地主神として二龍宮仁豊玉彦夫妻を、懐殿宮に潮 満∵潮涸の二玉 を、姉姫宮に豊玉姫を、天井宮に玉依姫をと、何れも海神一家を、それに彦火火出見命、塩土老翁と、龍宮玉の井に関係ある神々をお祀り してあるからでありま しょう。これらのことについては、後で「玉の井」のところでくわしく書きますけれども、そうしたこともありますし、また、開聞岳が筑 紫富士とか、薩摩富士 とかの別名をもって呼ばれるような、本土南端に美しく聳え立つ山であって、南海を航行する船は、昔からこの山を目標に航海していたこ とは明らかなことで、 琉球其の他南方から来る船は、開聞岳が見えると、みんな盃を交わして航海の安全を感謝したということで、枚聞神杜にはこのような感謝 や祈願のために寄進し たのでしょう。う、琉球王からの大扁額もあるくらいです。開聞岳即開聞宮というところからも、海の神として昔から崇敬されて来たもの と思われます。

瑞 応 院

枚聞神社の西、民家のあるあたり「門前」といいます。これは瑞応院というお寺の門前を意味する名前です。この門前から南、現開聞寺 までは、代々開聞 宮神主(今日の宮司職)紀(きの)家の屋敷跡です。この屋敷内に開聞宮大祭の時の国司や射手の斎戒のための御籠所もあったといわれま す。門前から北へ、明 治・大正・昭和十二年まで開聞小学校のあった敷地全体が瑞応院跡です。

瑞応院は開聞宮の別当寺といって、ここの住持が代々聞聞宮の経営に当っていたのです。神仏混淆の時代で、神社の御神体は全部仏像 で、神社の境内に鐘 楼、楼門、本地堂、地蔵堂などが建っていたのも、そのあらわれといえましょう。瑞応院の棟数は客殿を合わせて五棟で、開聞宮内に本地 堂一字があって、本尊 は聖観音、朝夕瑞応院住職によって修行されていたらしいのです。瑞応院は開聞宮の別当寺といっても、神社の祭典はもちろん社家の神官 によって行われていた のです。

瑞応院は、智通という偉い坊さんの開山ということになっています。智通は岩屋仙宮で鹿のロから瑞照姫が生れた時の坊さんであるとい われており、今か ら千年余も前に開聞山麓に寵って修練を積んだ末、ここに瑞応院を建てたのだそうですが、それから五、六年後に勅命により、沙門智達と ともに新羅の船に乗っ て唐に渡り、玄壮三蔵に謁して唯識宗を学んで帰朝したのですが、思うところあって仙人となり、その所在はわからなくなったということ です。その後数百年の 間、瑞応院は廃寺同然となっていたのですが、島津氏が小納言阿じゃ梨舜請にこの寺を中興させヽ坊之津真言宗一乗院の末寺として復興さ せたのだそうです。

舜請は応永二十七年十一月廿七日年令百三十才で、枚聞神社東の東之坊というお寺の山中に、生きたまま墓穴に埋まってこの世を去って おります。(入定 という)現在も立脈な宝・印塔という造りの墓がその地に残っております。舜請から約六十代、明治の廃仏毀釈の時まで続いて来たお寺で す。
 
瑞応院跡敷地の西に、瑞応院墓地の跡が残っておりますが、廃仏毀釈の時や、学校敷地にする時のことでしょうか、墓石の多くは地中に埋 められ、仏石像などは首をはねられ、いくらかの石塔や供養塔碑がこの頃集められて立っているという、あわれな荒れ果てようです

舜請和尚の入定始末記

「入定」ということは、生きたまま墓穴に入るということで、舜請和尚の入定の理由については、むかしから伝えられる次のような話が あります。

舜請は瑞応院を再興してから、百年近くの長い間、別当寺住持として枚聞神杜の運営についても、いろいろ力を尽くして来ました。

毎年の九月九日の枚聞神社大祭前夜の、神像の衣の着せ替えは舜請の大役でした。この衣替えの行事は、頴娃府本(現麓)の「染園」 (そめぞん、或いは そめどんという人もあり)というところで緋色に染められた新らしい衣を、御神像の背後から着せ替え、お化粧をするならわしでした。 が、百年もの長い間、こ の奉仕をしてきた和尚は、いくらかの慢心もあったのでしょうか、その年に限って正面からそれをしてしまったのです。すると神罰てきめ ん、たちまち眼球が飛 び出してしまったのです。

和尚は、はじめて自分の不遜であった心に恥じて、そのまま東之坊の山中に墓穴を掘らせて、生きながら埋まり、竹筒の空気ぬきをとお して、七日七夜の間リンを打ち鳴らして神におわびをしたということです。

玉 手 筥

枚聞神社に「松梅蒔絵櫛笥」という、国の重要文化財に指定されている化粧筥があります。別名「玉手筥」ともいわれておりますが、室 町時代のもので、 昔から神宝として本殿の奥に納められてあったものといわれ、九月九月大祭前夜には、この筥に納められた化粧道具をもって、御神像に化 粧をしていたものらし いと伝えられます。今は御神体し木像でなくなったし、国の重要文化財に指定されたということもあって、宝物殿に陳列されてあって、使 用するということはあ りません。

お守札の中身

みなさんは、新春の初もうで等のときお宮のお守リ札をお受けになるでしょう。 今のお守り札は、まことに豪華なものがかずかずあリ ますが、昔はあん な立派なものではなかったのです。 わずか何文(もん)か何銭 かのお初穂料をさしあげて、一枚のお守り札を受けていたのですからヽ それはお粗末な外見の ものでした。

まだ神社には当時の版木か保存されていることと思いま、すが、神主さんたちがお神楽の余暇に、版本に朱を塗って、和紙に「枚聞神社 御守」という木版 刷リをし、それを四センチメートル対七センチメートル角くらいに析り、中に約一センチメートル角くらいの紅絹(もみ)の布切れを封 人、これでお守り札ので きあがり、これを伸前に供えて祝詞(のりと)を奏して真正のお守り札となるのです。

ところが、その中身のわずか一センチメートル角の紅絹(もみ)の布片が何であるか疑ってみた人はだれもいなかったでしょう。あるい は気にもとめずに、ひたすら御神札としてありがたかっでいたことだろうと思います。実はこの「紅絹きれ」こそが御神体なのです。

舜請和尚は九月九日の大祭前夜、御神体の背後からお着替え、お化粧をするならわしのところ、長年お仕えしてきたからという慢心のた めに、それを前か らお化粧をして神罰をこうむったというのですが、そのお着替え後の衣の布を切ってお守り札に納めて、信者の守護符としたのです。この 絹布は、頴娃麓の「そ めぞん」または「そめどん(染園または染殿)という家で、紅に染めて御神体に仕立てていたということです。その家柄はまだ麗に残って いるはずです。
明洽二年の廃仏毀釈(きしやく)によって、像は焼捨てられ着替えの行事もなくなったので、したがって夜衣もなくなったのですが、大正 時代まではその名ごリをついで、紅絹の新しい反物を切ってお守り札の中に封人していたのです。

一の鳥居(いっのとり)宮馬場(みやんばば)

枚聞神社の木造朱塗りの鳥居(二の鳥居)を出て、北ヘ約二百メートルのところに大きな一の鳥居が立っていたといいます。その礎石だ けが道路の両側に 残っていて、俗に 「とりいし」といって、このあたり一帯は子供の遊び場のようになっていて、鳥居石によじ登ったり、跳びおりたりし て遊んでいたもみでし たが、前後二回の県道拡張工事に取り払らわれて、今は元の場所にありません。そのすぐそばには、日露戦役記念の凱旋門もあったのです が、これも道路工事の ためなくなってしまいました。

この鳥居石の上に、囲りニメートル、高さ七メートルの丸柱の上に九メートルの冠と、同じ長さの上貫がとおり、約四十センチ角ヽ高さ 六メートルの堀立 柱が、貫四丁をもってささえて立っていたといいます。現在の鳥居の二倍位の一の鳥居が、ニの鳥居と相対して立っている姿は、想像する だに立派で。神々しい ものであったろうと思われますが、台風に倒れて以米復元しないままになったのだそうです。

一の鳥居かちニの鳥居までは神杜の境内になっていて、「宮馬場」と呼んでいました。今の県道も含めてのものですから広い馬場であっ たのです。この馬 場は大祭の時など、流鏑馬といってヽ駈ける馬上から弓矢で的を射る行事で、慶長十五年島津氏が琉球征伐の年、喊捷祈顧のために、本殿 も脇宮のほとんど全部 も造り替え又は修築し、義弘公は九月九日の大祭には自ら参寵して祭典に参列、神杜に古くから伝わる鎖流馬の儀を観覧したという記録も ありますが、元和五年 以後中絶しています。義弘公も丁度この年亡くなっているようです。

明治以後は、この広馬場を「けもん馬場」といって、各縁日には参拝者がわんさ押しかけ、特に大祭の時には、この馬場一ぱいに天幕や ゴザ張りの市 がたち並び、物売店や見世物、芝居などで賑わったものでした。また平常のおまつりにも遠近の参拝者が多く、まだ食堂などというものも ない時代ですから、ご の広馬場にゴザを敷いて、馬肉、豚肉、魚などの昼食のおかずを売る野天食堂が出るものでしたが、今は県道になってしまって、僅か の境内地は、店を開く 余地さえなくなってしまいました。

御神体のゆくえ

仏教がわが国には入って来たむかし昔、仏様は他国の神様であるというので、国民にうけ入れられなかったのです。そこで「本地垂跡」 といって、インド のオシャカ様も日本の天照大神様も、元をただせば同じであるという説を立てて、仏様を他国の神様であるといって、きらうことがないよ うにしたのです。

そうした考えのもとにやがて、別当地という寺を定めて、神社の経営に当らせるようにしたのです。枚聞神社もその通りで、瑞応院とい うお寺が別当寺としてお宮の西にあったのです。

枚聞神社は昔、本宮のほかに八社のお宮があったのです。そしてそれらの御祭神の御神体は、みんな仏像であったのです。こうした神仏 混淆(しんぶつこ んこう)の時代が長く続いたのですが明治の初めになって、今度は神、仏、別々にするという廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)という令が、 政府から出されたので す。

そうなると日本人の性格は気が早い。このへんの人々も、今まで御神体としておがんでいた仏像を、神社東□の川坂上に待ち出して焼い たのです。(今の参集殿下道路辺)青い火がめらめらと燃えて、バツがあたりそうな気昧悪い光景だったと伝えております。

そればかりでなく、石像、仁王像、およそ仏にかかわりあるもの全部、梵字(ぼんじ)を彫った墓石などまでこわすか土中に埋めるかし てしまったので す。今土中から堀り出される石塔などがそれです。枚聞神社の脇宮ハ社も御神体を焼いたから、社殿はとりこわして本宮に合祀して、御霊 (みたま)を一つの鏡 に移したのです。

興玉神社も枚聞神社の末社ですから、やはりその通りで、後で川尻浦の鎮守社蛭子宮、川尻塩屋の鎮守社もここに合祀されたらしいが、 みたまは興玉神社の鏡に移されたであろうと思います。

ただ、他の神社では御神体である木像は全部焼かれたのに、興玉神社のみにあの写真の神像が残っているということは(興玉神社の御神 体でなければ川尻からの三社の内いずれかの宮の)御神体としてまつられてあったものだろうと思うのです。

ただあの御神像がなぜ残ったかということについて、詩文の最後に書いたように、仏像でなく神像であったために、廃仏毀釈の厄(や く)をのがれて今まで残った責重な像と思うのです。

今は御神体でなくとも、いつかの時代に誰が作ったかわからない像ながら、廃仏毀釈前は御神体であったと思われるということです。

みたま移しとして神霊を鏡に移しまいらす神事を行なえば、もう、像は一体の木像に過ぎず、鏡が御神体となるのです。像は一像一神一 仏であるが、鏡は一鏡万体の御神体を容れ得るのです。

こういうことから、一歩まちがえば、御神体ではなくなったから焼いてしまえ、古くさい木像だとして、消えてなくなることがあるよう に、いろいろな昔 の貴重な古いものが失なわれて来つつあるのです。古いものを大事にして、郷土の誇りにしましよう。枚聞神社の御神体が焼かれる話は、 他の機会に書きます。
    絵と文=長山竹生

枚聞神社一社伝来の神舞

○田の神舞の詞
春田うつうつ夏早苗取る、朝より秋の夕辺を守る御田の神。抑々神代の昔豊蒼原の中津国に、宇計毛智の神あり、須佐之男命、天照大神の 御勅詞を受け、受持の 神の御元に至り給ふ時に、受持の神、頭を廻らして国に向って即ち国より飯出づ、海に向って鰭の広物、鰭の狭物出づ、山に向って毛の荒 物毛の仁吾物自ら出 づ、種々の物を百取の机に備え、御饗奉る時に、天照大神其の稲をみそなはして「是は顕見蒼生の食ふて活くべき物なり」と宣り給ひ初め て天の狭田長田に植え 給ふ。其の秋の田の垂穂、八束穂に打ち垂れて、甚だもって心嬉し、さればその田のほの水ロより由須れが末の末までも、隈なく守る吾な れば、其の田の穂の長 さ一尺八寸許り、ブラブラブラブラ、ユラユラユラユラ其の稲の穂の事なれば、米の粒の太さ一寸八分許り、コロコロコロコロ、ゴロゴロ 其の米を飯に炊けぱ天 下万民の命を継ぐ、酒に造れば泉と湧きて不老不死の薬となる。餅については家の祝の鏡餅となる。是をきこしめす人々は、夏の日にも暑 からず、冬の夜にも寒 からす、この御田の神の皮膚の如く、赤ら赤らと色もよし、心嬉し、心嬉し。

我を知らずや、十万町を始めとし、一町田までも祝はれてヽ耕す春の日より収むる秋の夕べまで、一粒を万倍と守る吾なれば、今日の大 神楽、天照大神を 初め奉り、諸神を勧請し奉り、神餅を供し、御酒を供へ、しときをととのへ奉り、今宵も過ぎる夜中も過ぎる頃迄も、乙の御田の神をうけ せんや。国土の人の命 を継ぐ、田地の本を忘れたかや田地の本を忘れたかや。

「偖又是を如何なる物と思うらん。子孫繁昌の古哉須の木を一尺ニ寸にたいどりて、中をくぼめて作りたる物なり。」
「朝夕に物食ふ毎に豊受の神の恵を思へ世の人」神楽男の子嬉び楽を奏せ ゝ
 
<解説>  
むかしからわが国の至るところの神社では五穀豊穣の祈願祭がおこなわれてきたが、薩摩、大隅・日向の村落や田の畦道には田の神が建立 され農神として信仰されていた。いまもその素朴な姿で道行く人を眺めている

田の神は150石に一体ぐらいの割合で建てられたともいわれ、また米どころでは20戸に一体ぐらいがあったとう。郷土でも宮田のた んぼの畦道に建っ ていたが昭和初期の耕地整理のときなくなって、いまはみられない。また各部落では農作業の折り目に定期的に田の神講が行なわれてき た。 

枚聞神社の御田植祭や秋のほぜ祭りには毎年一社伝来の田の神舞が奉納されてきた、田の神舞は面をかぶり、頭にコシキをいただき、手 に飯さじと幣を持ち、面白おかしい所作で舞うのである。

○天細女命の舞(祭文)
 千磐耶経神の教か鈴の声、今照を告けてまいらん。

素盞鳥尊、天照大神の位を奪はんとしたまいては、天照大神天の岩戸に堅くこもらせ玉ふが故、天下闇となり、日月の光を矢ひ見ること なし。八百万神達天を仰き地に伏し悲しみ玉いしは限なし。

神人の歌に曰く天照大神の光をしのびては八百万神々涙ぐみけん。吾天照大神の秘曲を探し玉ふとて、天のかくやまの土を取り、御形を 鏡にうつし奉ら ん、夫れ初の鏡にきず付附ければ、是きず付けたる鏡は手草木を守る木にて、岩戸前に捧げ玉う、夫れ上枝には青き玉を掛け天の色をも表 したり。

中の枝には件の鏡を掛け天照大神の御形を表し、下の枝には五色の幣帛を掛け、草木国土の色をも表したり、その時天鈿女命まさかきを かつらとし、ひかけをたすきとして左の御手には、をけらの木ささを持ち、右の御手にはさなぎの鈴を取りえらくをなし玉ふ。

歌の声笛つつみの音岩戸にひびきて、天照大神岩戸を細目に明け玉ふ、御光鏡にうつり、御容向を成玉ふ `‘

天照大神の御詠歌に日く「青幣帛たくさの技をと.りかざしうたへばあくる天の岩戸かな、この所に官人のこしまさざ秘曲の神楽を奉れ そうし」

○鬼神舞
  中央祭文
 あまのさかほこふるときは
      みだれし世もかなはざりけり
  南方祭文
 ゆるぐともよもやぬきしのかなめぐし
        かしまのかみのあらしかぎりは
<解説>
天鈿女命の舞は天の岩戸の舞であるが、天照大神は弟の素盞鳥尊のおこないに御立腹され、五月五日天の岩戸にお籠りになった。このため 天下は闇夜となり八百 万の神たちは深くなげき悲しまれ、天照大神を再びこの世に奉戴せんと協議され、天の岩戸の前で楽を奏し、天鈿女尊の舞がはじまった。 岩戸の中の大神も神々 たちの心にうたれ、九月九日ついに天の岩戸を開げて出てこられ、天下は大神の御光に浴することができたという神代時代の神歌の舞であ る。
むかしから五月五日と九月九日の祭りには天鈿女命の舞が奉納されてきた。

御馬所

位置 役場の東北1.8キロメートル上仙田
由緒 通称「ごばぞん」といっているが御馬所のことである。その昔天智天皇御下幸の時の白色の御乗馬を飼っていたところである。

この馬は神馬として飼育され、代々枚聞神社の向神幸祭の時は神の御乗馬として仕えその飼育に井上、大山の両社家が当っていた。これ は明治の初年まで続いたが、当時の飼糧桶が今も保存されている。

上仙田入口東の丘を民富岩(びょうぶ岩とも)と言っているが、ここは御馬所の近くでこの丘の南側の景色のよい場所に神馬は葬られて いる。

宮馬場に凱旋門復原

枚聞神社ホゼ祭の10月14日の午後から、由緒ある薩摩一の宮の宮馬場の一角に高さ(地上)3メートルの凱旋門が復原され、その竣 工祭・祝賀会が現地で厳粛の中盛大に執り行われました。

この凱旋門は、明治38年日露戦争の郷土出征兵士の帰還を迎えるため、当時頴娃村住民一同で建立されたものです。

因に、本町出身の出征兵士は、十町15人、仙田45人、川尻60人の計120人でした。
 
その後、凱旋門は宮馬場の一角にそびえ、村民の愛国心と郷土発展のよりどころとして住民に親しまれていましたが、昭和40年代に入っ てからたまたま県道の拡幅改良工事が行われたため、・凱旋門は撤去されて久しくこの地で放置されていました。

最近に至り、祖先の輝かしい偉業を顕彰する記念碑を冒とくするものであるとの住民の声が高まり、有志の方がたが集って、凱旋門復原 実行委員会(会長 末吉善利)を桔成し復原にとりかかったものです。

和憲法の精神に基づき世界平和と活力とぬくもりにみちた心豊かなシンボル開門(ひらかれた門)として、町外からの観光客歓迎の門と しても活かされ、開聞町の名所の一つになるのではないかと思われます。

虫釣り

今ではもう、そんな光景はまったく見られなくなりましたが、私たちが
子どもの頃は、麦がうれる頃になると、どこの家でも庭や畑などに刈り麦をほしておいて、麦うちをする音が聞こえてぐるものでした。
枚聞神社のお庭は、今は一面ジャリをしきつめてありますが、その頃はきれいに掃き清められたかたい土のお庭でした。
私たちは、麦のほさきのトゲトゲのところを、麦うち場からひろってき
てお宮のお庭に行くのです。
 
庭の面をよく見ると、小さな穴がたくさんあるのです。
私たちはその小さな穴に麦のギザギザの穂さきをさしこんで、じっと見
ているのです。すると、しぱらくすると麦の穂さきが動き出します。頃あ
いを見て引きあげると、2センチ位の虫がひっかかってつりあげられるのです。それをかぞえて、何びき釣ったとほこりあうのです。
今でもかたい土の庭にはこんな虫の穴があるのではないでしょうか。
麦のうれる頃、さがしてみるのもたのしみでしようね。きっと皆さん
の遊びの相手になることでしよう。
ただジャリの多いところや海岸地方の砂地ではこんな遊びはできません
毎朝きれいに掃除するような土のかたい庭でないと虫の穴は、みつかりま
せんから。

玉の井

画像の説明

玉の井は開聞の名蹟の一つで、日本最古の井戸と伝えられ、このあたりは太古龍界であって、彦火火出見命と龍神豊玉彦の娘豊玉姫との 出会いの場所とい われているところです。今は僅かに、一アールに足りない井戸跡として鳥居が立っているだけですが、むかしは周り五町六間(約五五六 メートル、百四十メート ル四方)の、頴娃山玉井寺龍宝坊というお寺があったということです。「三国名勝図会」という本や「開聞古事縁起」にくわしく書き残さ れておるところです。
 
ににぎの命とこのはなさくや姫との間に火照命(ほてりのみこと)、火須勢理命(ほすせりのみこと)、火遠理命(ほおりのみこと)(彦 火火出見命)の三人の お子があったことは前にも書きましたが、この火照命と火遠理命のことを「海幸彦と山幸彦」の神話として、戦前は小学校教科書に出てい たし、最近の教科書に も神話としてまたとりあげられたやに聞きますから、大方の日本人には身近かな物語りとして親しまれている話ですが、これから書いてゆ く「玉の井」のほか、 いくつかのこのあたりの地名伝説にかかわりがありますので、簡単に書き進めてみましょう。

①田無目堅間(めなしかたま)

画像の説明

二二ギノミコトは、長子火照命に「海幸彦」として、今で云えば漁業大臣とでもいう地位でしょうか、海のことを総管させ、弟の「火遠 理命」(彦火火出 見命)には「山幸彦」として専ら狩猟等、つまり陸上の管掌に当らせられたそうですが、父二二ギノミコトが亡くなられて後、兄弟は
どちらも自分の役目にあきてしまい、何か新らしい仕事がしてみたくなり、たがいに相談の上その役目を交替して、兄命は山へヽ弟命は海 へ獲物を求めて出かけ たのです・何分にも珍らしい仕事ではあっても馴れないこととて、海山ともに何の得るところもなくて、数月を費してしまいまし
た。兄命は特に仕事を交換したことをつくづく後悔していましたが、もうがまんできず、ある日弟命の家を訪ね「馴れない仕事は労多くし て得るところは全くな かった。珍らしいままに交替を話しあったが、思い切ってまた元光や役に返った方がよいと思う。借りた弓矢を返すから私の釣道具
も返してくれ」といって、道具を返しあうことになったのです。ところが、弟命は兄命から借りた 釣針を紛失してしまっていたのです。幾重にもおわびしたのですが、どうしても許してくれないのです。新しい釣針を持って行ってわびても怒りは解けないので す。おしまいには、自分の大事
な十握剣をくだいてたくさんの釣針を造らせ、それを箕一ぱいに盛りあげていってわびても、元の釣針でないと許すことは出未ないときつ い怒りようです。

いよいよ思案にあまった弟命は、釣針をなくした海辺に立って途方にくれていました「もしもし、あなたはなぜそんなに悲しそうに海を 見て立っておいで か」と呼びかけるものがあります。ふり返ってみると一人の白髪、白髭の老翁が立っているのです。如何にも親切そうな、そして頼りにな りそうな老人なので、 事のしだいをくわしく打ちあけることにしました。それを聞いた老翁は大へん同情して「それではねたしが、あなたのために出来るだけの ことをしてみましょ う」といって、命を待たせておいて海岸から去って行きました。

やがてこの老人は「めなしかたま」という籠舟を造って来て命をこの舟の中に入れ「着いたところは龍神の国です。そこで聞いてみられ るとよい」といっで、海へ押し出したのです・塩土老翁(しおつちのおきな)というえらい神様でした。

②龍宮城

画像の説明

命を乗せた籠舟は、間もなく海神の宮に着きました。これこそ世に云う龍宮城です。実に美しけ別世界で、目をみはるほどでした。雲を 凌ぐような金殿玉楼、朱塗りの柱、ひきたつ白壁、真珠やサンゴをちりばめた高欄など、夢みるような御殿のたちならびです。

命は和多都美神豊玉彦の別館である龍宮城や大手門の前に立っているのでした、。そこには清冽な清水を湛えた「玉の井」がありまし た。命が井戸端に立 ち寄って水を汲んで飲もうと思っているところに、門の扉が開く音がして、玉の壷を持った侍女を従えて、貴品ある美女がこれも水を汲み に出て来たのらしいの です。命はとっさのこととて、井戸のそばの湯津香木の樹上によじ登って身をかくすことにしました。美女たちば何の気なしに冰を汲もう と井戸を覗きこむと、 水面に男の姿が写っているのです。びっくりして見上げると、湯津香木の枝のところに、一人の見なれない男が登っているではありません か。女たちはますます 驚き、声も出ない有様です、そこで命はやおら木からおりて、驚かしたことを深く詫びて、決してあやしい者でないことを述べて、改めて 水を所望しました。

やっと落ち着いた女は、玉の碗に水を汲み入れてうやうやしく差し出しました。命はおいしそうに水を飲みほし、お礼として首飾りの玉 を一つ抜きとって これをロにふくみ、玉碗の中に吐き出して返しました。美女は「美しい玉ですこと」といって玉を取ろうとしましたが、玉は碗に密着して いて取れないのです。 これはただびとではないと思った女は、門内に駈けこみ、このことを主人乙姫(豊玉姫)に報告したのです。姫が出てみると話のとおりの 美丈夫です。

③おがご(拝顔)

龍神豊玉彦は、娘豊玉姫のあわただしい知らせで門前に来てみると、いかにも貴品高く高貴の方と見受けられたので、「私は龍神豊玉彦 です。お見受けす るところ高貴のお方と存じます。もしや天津神おゆかりのお方ではあらせられませんか」と、うやうやしくお伺いすると、天孫瓊々杵命の 御子彦火火出見命であ ることがわかったので、龍宮城内は大騒ぎになりました。

「玉の井」一帯の字地名を拝ケ尾(はいがお)といっていますが、これは近時になって地積調査か何かの時「拝顔」とあるのを、漢字音 訓両読みをして、 このようになったのではないかと思われます。その証拠には玉の井のそばの墓地を元々「オガゴんハカ」(オガゴのハカの意)といってい ました。つまり「拝 顔」(オガンガオ)がつまって「オガゴ」と呼びなされて来たもので、玉の井で彦火火出見命と豊玉姫の顔合わせの地としての名称であろ うかと思われます。

④きようでん(饗殿)

「玉の井」を門前とする「拝顔」から「饗殿」まで、龍宮城の本丸であったと思われます。その「饗殿」といわれた現在の「京田」部落 は「おがごん墓」 を祖先の墓地としているところです。この京田の名が古い頃の時代時代によって「キョウデン」の呼び名は変りませんが、当てた漢字がそ れぞれ異っているとこ ろに、この地のうつりかわりを物語るものがあっておもしろいと思います。次にあげてみますと「饗殿」「京殿」「経殿」「京田」等と 変ってきているのです。

龍宮城では、天孫の御来訪というので、一族郎党を召し集め、座敷を清め、絹畳をハ重に敷き、その上にお手のもののアジカの皮八枚重 ねた責賓の間の上 段に、命をお坐りねがい、あらゆる珍味佳酒を供えて接待がはじまったのです。この饗応の御殿が「饗殿」で、今の京田部落の名として 残っているのだというこ とです。
 
大宮姫の仮御殿がここに立った時には「京殿」といい、法華寺という衆僧修行の寺とされてからは「経殿」と呼ぶようになったことは、前 に書きましたが、こう したうつりかわりによって、呼び名は変らないが、文字の上で区別されて来た京田も、今は現代人のレジャーの場として栄える 「唐船峡 ソーメン流し」への道 路沿いの部落として、ひっそりとむかし語りをひめて、しずまりかえったただずまいを見せております。

⑤ごへしご(御返事川又は御瓶子川)

ソーメン流しの水源「かわかん」(川頭)の、夏冬変らぬ冷めたさを誇る湧水が「宮川」となって流れ、仙田・十町の宮田たんぽをうる おしているばかり でなく、水道施設の出朱る最近まで、十町・仙田住民は飲料水としてこの流れの水を汲んでいたのです。この川の上流、玉の井から仙田へ 渡るあたりを「ごへし ご」と呼ばれています。

この呼び名にも二た通りがあって、呼び名はともに「ごへしご」ですけれがも「御返事川」と書く場合は、彦火火出見命と豊玉姫の恋愛 が実を結んで、結 婚の返事がなされたところが、この川べりであったということにつながる名として、またこの川の清冽な水はむかしから枚聞の神の、朝夕 の御饌の水として瓶子 に汲んでお供えしたので「御瓶子川」の名があるという、両様の意昧があるのだと伝えられております。

⑥潮満玉・潮個玉

彦火火出見命と豊玉姫は、華やかな華燭の典を挙げられ、夫婦の契りを固められました。父神豊玉彦はこの若いカップルに宏壮な宮殿を 建てて、結婚のひきでものとして贈られたのです。この御殿の建てられたところが「婿入谷」であると伝えられています。

彦火火出見命はその壮麗な宮殿で、愛人豊玉姫と幸福な結婚生活を三年という年月過ごして来られましたが、ある日ふと、針紛失のこと に思いあたり、自 分は実は兄上の釣針を探しにここまで来たのであった、こうしてぬくぬくと幸せにひたっていてよいものであろうかと思うと、気もふさぎ こみ顔色もさえず、夜 の寝ごとにまで出るようになったのです。この異常な様子を見兼ねた姫は、父神のところに行き、事の始終を話して相談したのです。娘可 愛いさの父神は時をう つさず命を呼び、事情を聞いてみることにしました。命も今はかくすこともできないと、釣針紛失のことから、老翁の造ってくれた龍舟に 乗ってここまで来たこ とを、くわしくうちあけて話されたのです。

すると、さすが海の支配者、早速部下に命じてその日のうちに魚族残らず召集、釣り針を探すために一々身体検査まですることいなりま した。
でも知っている者もなければ、あやしい者も見あたりません。ところが、身体検査の終るころになって、一匹の赤鯛が平素の顔色に似ず、 蒼ざめてすっかり弱り はてたようすでやって来ました。海神様のきついお布令であるからと、病気をおして出て来たのでょう。さっそく係がいろいろと問いただ してみるが、疲れ切っ ていて要を得ないのです。そこで章魚入道に命じて、吸盤のあるので咽喉の奥をさぐらせてみると、釣針の刺さっているのがわかり、引き 出してみるとまぎれも ない命の釣針でした。

釣針が手に入ると、命は一日も早く兄命に釣針を返して、怒りをしずめてもらわねばと思い、心中を豊玉彦に話すと、今は自分の婿であ るけれども、無理 に引きとめるわけにもゆかず、「それはまことにお名残りおしいごとですけれども、ご事情がご事情だけに御無理を申しあげることは出来 ません。ここに「潮 満・潮涸」のニつの珠があります。これを差しあげます。お帰りになって兄神様に釣針をお返しになってもまだお怒りが解けず、お困りの ことがあったり、その ほか国おこしのために困難なことでも起った時にお使い下さい。「潮満珠」は水攻めに使います。もし敵方が改心して本当に誠意があると お思いになったら「潮 涸珠」を出して、水を干らせてお助けなさい。むやみに人の命をそこねる役には立たせてくださらぬように」といって二つの玉を献上しま した。

命は海神の心ずくしに深く感謝して、用意してもらった一尋鰐の背に打ちまたがり、またたくうちに元の浜辺に帰り着くことが出来まし た。火照命は、弟 命が苦心して探し出して持ち帰った釣針が、再び自分の手に返ったことに対し、いたわりの言葉一つかけないばかりか、ついに戦争という 事態にまでしてしまっ たので、彦火火出見命は、今は仕方なく龍神にもらった二つの玉をつかって、兄方をさんざんに苦しめ、とうとう改心させることが出未た ということです。

むこいいのたん(婿入谷)

入野部落からお神楽山へ登る谷あい(多宝仏塔への登り路)杉木立の茂る下、渓流がさわやかな音を立てて流れるところ、季節季節の 鶯、ほととぎすなど野鳥の声も聞ける、俗界を離れた感じの自然山峡として、今に昔の名残りをとどめているようなただずまいです。

開聞古事縁起には、「婿入谷」の見出しのはじめに「彼宮称婿入殿」と書いてありますから「婿入谷」は地名で、ここに建てられた宮殿 は「婿入殿」と称 したのでしょう。ここに彦火火出見命と豊玉姫の新居があった所と伝えられます。行ってみると、そうしたご殿のありそうなとこみと思え るような神秘さが今に 感じられます。お二人を祀る「霧島神社」も、元はこのあたりにあったのだということです。土地の人が「きりしま」といっているところ に行ってみると、神社 の跡らしいところもありますが、今は松が植林されております。

かいもん昔話

唐人山

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昔は入野部落はずっと北の山の手にあったと。いうことです。海岸は一本の木も草もない砂浜だったそうで、風の強い日は砂を巻きあげ て住まうことは出来なかったのだそうです。
今、人々がエドンマエと云っているところに、エイの殿様の外城(別荘)があったのです。そこを中心に入野の人々は浜からの砂風をさけ て住んでいたのです。
氏神の霧島神社も山の谷あいにあったのです。人々は何とかして早く広々としたところに住みたいと、海岸の砂浜に毎年砂どめの木を植え つづけたそうです。それが今の唐人山です。

殿様の別荘で、病気の殿様が自殺されたと聞いて、村人は何か悪いことが起りそうで、これを機会に砂どめの木も茂って来た海岸へ、う つって住むことに したそうです。氏神様も、今のクラブの南に移してまつりました。でも、まだ不幸が続きました。ある年の大あらしの夜、唐の商船がたく さん難破して、浜に打 ちあげられたのです。村人はこの外国の船員の死体を、海岸の山にほうむって石を立ててあげたのです。それでこの山を唐人山と云うよう になったのです。

また別の話では、モオコ軍が日本に押しよせた時、大風が起ってモオコ人の死体が打ちあげられたのだとも云われていて、ぢいさんたち が子どもの頃まで「岳下蒙古来、タケシタモッコンコ、山道まがり曲って道やわからん」とうたって、砂の上に迷路絵をかいて遊ぶもので した。

こんなに不幸なめにあいながら、入野の人々は一生けんめい働いたのです。そしてテンドンマツ(天道松)に集っては「不幸が起りませ んように」と、日 の神様に祈ったのです。 そのほか、山崎にため池をつくって田んぼをひらいたり、村のさかえに一生けんめいになって、今のような平和 な入野部落ができあ がったということです。

石切り安兵ヱ

入野のムコ入谷に、いい石の出る石切場があったそうです。多分その石場だろうと思うが、元禄時代に石切りの安兵ヱが、石を切り出し ていたところが、 切り割った石の中に貝が入っていた。安兵ヱは、岩の中から海にいる貝が出たと青くなって、神主様にたずねに行ったそうです。神主様も 「これは大へんなもの を掘り出したものだ、今まで岩の中から海貝が出たという話は聞いたことがない」と二人ともブルブルふるえる位こわくなって、しごとを する気もなくなってい たそうです。

この話が伝わり伝わって鹿児島の岩崎という人の耳に入り、これはめずらしいこともあるものと、わざわざ見に来て、ほんとに石の中に 貝が人っている実 物を見て驚いた「大昔はこのあたりは竜宮であったといわれて有名であるが本当だ。これはこのままにしておくものではない」と、立派な 箱を作って貝石を入れ 「貝石の記」という書き物を添えて、枚聞神社に奉納したという話が、昔の古い本に書かれております。けれども今は神社にはこの箱はあ りません。

ただの昔話かと思っていたら、安兵ヱという石切りはたしかにいたことがわかりました。入野か物袋の人だと思いますが、立派な腕前の 石工で、この人の 彫った記念碑と供養仏が、頴娃へ行く途中の瀬平公園上の、ホラ穴の中にあります。昔から「親知らず子知らず」といわれ、たくさんの通 交人が波にさらわれ た、ヒダイビラン瀬の道を、安全な道に造りかえた記念碑とともに、ここで死んだ人人の供養のためと、貝石を掘り出してから、気分のす ぐれない思いをしてい た安兵ヱの供養心もあわせて彫ったであろう石仏が、ホラ穴の中にまつってあるのです。
みなさんはこの話をどう思いますか。貝石というのはどうして出来たのでしょう。私たちの町は、昔は竜宮だったのでしょうか。

天の岩屋

我が国の神社は、山岳信仰にその源を発しているといわれていますが、山のあるところ必ず祀りがあり、神社のあるところには、必ずと いってよいほど大 なり小なりの山が見られます。開聞岳もその例にもれず、頂上には石祀りがあり、神代三神が祀られ、枚聞神社はこの秀麗な山麓に、山と 深く結ばれて鎮座され ています。

開聞岳はむかし山伏の修練の場であったといわれ、いたるところにその跡と思われる所が残っております。
開聞岳登山口の4,5百メートル登った左側に「天の岩屋」はあります。ここは上古端応院開山「智通」が、仏道修行を積んだ所といわ れ。また神仙「塩土老 翁」の修練の洞窟とも伝えられております。その後もたくさんの仙人、山伏たちの修行の道場となったところといわれえおります。

洞窟壁をなす岩壁に自然半月の型が現れているのも、いろいろな伝え語りになっているようです。端応院記録には、ここに聖観音堂が あったとありますが、今は跡もはっきりしません。

天の岩屋

今は登山道から流れ込んだ土砂で岩窟も埋まり、岩壁の半月も地表僅かばかりの上に見られる状態になっておりますが、あたりに永禄年 代(1500)の 板碑や、五輪塔の一部が数基、寄せ集められたように立っております。しかしこれらも長年の土砂中埋没や、人為的そのほかのために損傷 が甚だしく、彫刻の文 字も解読困難なものがあります。岩屋山端照寺というお寺もこの附近にあったらしいのですが、どのへんだったのでしょうか。

鹿の口から女の子が

 開聞岳の麓岩屋草堂に一人の坊さんが入って勤修していました。そこへまた一人の仙人がやって来て、前からの坊さんのために薪を とったり、水を汲んであげたり、まるで師僧につかえる下僕のように立ち働いていました。

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或る日二人が草堂で仏事を勤めていると、一頭の雌鹿がやって来て、あっという間に閼伽(あか)の水を飲んでしまいました。すると、 その雌鹿はたちまち孕(はら)んで、翌年の春、その口から一人の女の子産んだとういうのです。

この時の草庵は黄金の光の中におし包まれ、うららかな春が一ぺんに訪れたかのように、林といわず草といわず、すべての植物が蕾を割 り、花の香はあたり一面にひろがり、とりのさえずりもも時ならぬ楽園を作りなしたということです。

しかも三日月の影が忽然ととして岩屋の岩面に現れ、朝日が空を輝かせて昇り、この世のものとも思えない美しさであったというのです から、正に荘厳なものであったのでしょう。

そうした中に雌鹿の口から、妙相の女の子が産まれたのですから、二人の喜びようたらありません。仙人が飛ぶようにして湯浦山から産 湯を汲んで来て女の子にゆあみさせるなど、馴れない男手でてんてこまいの忙しさでした。

女の子の産まれるとき、そうした珍しい端象が現れたので、二人はこの子の生名を「端照姫」と呼ぶことにし、坊さんと仙人が親代わり になって育てることにしました。

この僧が智通上人で、わが国真言五祖の一人で、斉明天皇代に勅を奉じて新羅(しらぎ)の船で唐に渡り、彼の国の善智識玄壮三蔵に謁 して仏道を学んできた人であるということです。

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また仙人は南極仙、又は塩土老翁と同一人であるかはわかりませんが「開聞古事縁記」には「南極仙塩土老翁となづく、この仙人は南斗 星の精霊」であると書かれてあります。

とにかく、塩土老翁も智通上人も、ともに役小角一流の山嶽仏教徒であるとされております。山嶽仏教徒は、昔から大和の金峰山を仏道 修行の道場としていたというのですが、智通上人は、真奈美の開聞山麓の岩窟にこもって、開持法を勤修した初めての人であるといわれて います。

端照姫

岩屋仙宮で鹿の口から産まれた端照姫は、肥立もよく、日々その美しさを増し、僅か2歳というのに言葉がとくぁかり、文字の読み書き も出来、詩歌など も暗踊するという、才媛の卵というほかない優れた才能の姫に育っていきました。もちろん坊さんと仙人の教えもあったことでしょうが、 天才というよりほかは ありません。

この評判はやがて大宰府にまで聞こえました。大宰府ではこのことを朝廷に奏上したのです。すると朝廷では、その神女を采女(うぬ め)として差し出すようということで、僅か2歳の姫は仙人塩土老翁がお供をして、泊まりを重ねて筑前大宰府まで送って行きました。

大宰府からは役人が付き添って、京の鎌足大臣のお屋敷まで送りとどけたのです。それからは鎌足大臣が大事に育てることになりまし た。

月日の流れは早いもので、端照姫は13歳の美少女に育ちました。そこで姫は名を改めて、「大宮姫」となり、鎌足大臣の推挙で、いよ いよ宮中に召し出されることになったのです。

天智天皇と大宮姫

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天智天皇は、南都朝倉宮から江州志賀に都をおうつしになり、鎌足大臣は大職官という高い位に進められました。丁度その頃、皇后様が お亡くなられましたので、宮中には仕えている大宮姫を立てて皇后になられたそうです。

大宮姫は前にも書いた通り、幼い頃から稀にみる才女であったそうですが、その容姿もまた抜群で「縁起」の中には次のように表現され ていますから、その一部を紹介してみましょう。

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「・・・その容儀は最もたおやかで、雲のような鬢(びん)の生際の美しさ、玉の肌は氷雪よりも輝き、双の眸は秋水を湛え、牡丹の花 を思わせるような 言葉つき、十本の指はあたかも春先の葱のように白く、糸柳の風に揺れるような腰つき、まことに天女の粧(よそ)いをあざむくようで、 天皇の御寵愛この上な く・・・云々」

と、ありったけのほめことばを連ねて書かれておりますが、美人薄幸といいましょうか、大宮姫のこの幸福の期間は、長く続かなかった ようです。

大宮姫の都落ち

大宮姫の美貌と出世は、多数の宮中女官たちの妬みの的であったようです、大宮姫は雌鹿の口から産まれて来たためか、足の爪が2つに 割れていて、ちょうど牛の爪のようであったそうです。
そこで姫は夏冬問わず、常に足袋をはいていて、姫の素足を見たものはなかったそうです。

そこで或る雪の日に、女官たちは宮中で雪打ち(雪合戦)を催すことにして、大宮姫をもひっぱり出して、はじをかかせてやろうという 悪だくみをたてたのです。

そうしたたくらみのあろうなどとは露知らね姫は、大勢の女官たちと、真白に降り積もった宮殿の広庭に出て、楽しく雪打ちの遊びに興 じているうちに、どうしたはずみか足袋が抜けてしまいました。

ここぞとばかり、多くの女官たちは姫のまわりを取り囲み、いかにも親切げに、足袋を拾って姫にはかせようとするのです。
姫は強くそれを拒んでいたのですが、とうとう素足を皆に見られてしまいました。さあ大へん。
「姫の足みたか」
「姫の足は鹿の足」
「牛爪見たか、鹿の子見たか」
「雌鹿がここに」
 女官たちは、ここぞとばかりはやしたてるのです。
今は姫も返えす言葉もありません。はずかしさ、口惜しさいっぱいです。そのままさっと宮殿の内へ逃げ込んでしまいおました。

大宮姫は大決心をして、宵やみにまぎれて江州志賀の里から、伊勢路に向かって駕籠を急がせることにしました。付き添う供人は十数人 であったということですがこの付き添いの人々の末であろうという家が、開聞宮社家として残っているということです。

大宮姫船路の旅

伊勢の阿濃津から、いよいよ生れ故郷の開聞さして船出した大宮姫の心中は、まことに哀れなものがあったようです。供奉の臣たちも、 それだけにいろいろと心を配ったように察せられます。

○住吉の神の助けをたのむかな西の海辺を渡る舟路を

大宮姫の船中から逢かに、摂津の国住吉明神に、海上安全を祈願した歌と伝えられます。
姫はいつも天智帝のことを思い出しては暗い表情に打ち沈んでおられるので、供奉の人たちは時々船中酒宴を催したり、詩歌の遊びを計画 して慰めることにつとめました。

或る日、姫はふと帝のお履物を持って来ていることを思い出し、なつかしさのあまり、それを取り出して、ありし日の帝とのむつまじ かったことなどを思 い浮かべながら、履物を抱きしめていましたが、何思ってか、そのお履を捧げて船べりに行き、海中に投げこんでしまったのです。すると 不思議や、そのお履は たちまち二羽の鴎に姿をかえて、船の後からついて来るではありませんか。

○あわれいかに旅寝の夢のみえつらん古人も家を恋うらん

という歌は一その時の歌といわれます。だがその二羽の鴎は、やがて二個の甕にかわって、やはり船の後から開聞の里までついて来たそ うです。
船出してから、その年の大晦日を迎えることになった時の歌として、

○舟ながら今宵はねなんおひしくの年のたちくるみちにまうかな
○かり枕あくるあしたは春の日のうらうらにさして出る舟人

というのがあります。そして新春には、

○春になるあまの磯やの住居にも梅の花咲く春は来にけり

などと、年の暮れを舟の上で送る淋しさ、また新春を迎えて、磯辺の漁師の住居のあたりには、もう梅の花が咲き匂っているであろう と、陸上の生活を思い、ひいては宮中に帝とともに幸福な新年を祝った、過ぐる日の感慨をこめた歌とされております。
また風が強く海の荒れた日の歌の

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○舟はただ岩尾かくれもたずぬなり世の波風にかくれがもなく

は、自分の現在の境遇に思いを寄せてある歌とも思われます。

○姫小松なにのちぎりか荒波のかくる岩尾に根をとどめけん
○舟の上に雨は降り来ぬかさぬ日の島をたずねてやどりさだめん
○松に行く舟よりもなおとしなみの早くもうつる今日の暮れかな

などと、舟の上の明け暮れを、どんなにつれなく過ごされたか、僅かの臣たちの心ずかいや、歌を詠むことによって、来る日来る日を帝 を恋いながら、西へ西へと都を遠ざかってゆく淋しさをまぎらわしている気持が察せられます。

○ながむれば波こそうかぶさつまがた沖の小島とつけしことばに

とうとう逞かに薩摩へのお国入りです。姫の喜びが、ひしひしと胸を打つように思われます。

大宮姫の山川牟瀬浜着

○春風に霞みわたれる山川の岩こそ波も花と咲きける

満一年の長い海路の旅を続けた大官姫が、つつがなく薩州頴娃郡山川牟瀬浜着の歌といわれますが、姫の喜びの気持をよく表わした歌と いえましょう。
牟瀬の浦人たちは、ぞろぞろと浜辺にやって来て姫を迎えたのです。それを伝え聞いた郷土開聞の人たちは、早速姫のために開聞山麓に仮 御殿の造営にとりかかりました。
姫は仮御殿が出来あがるまでの間、牟瀬の浦に滞在、ここでその年を越すことになったのです。

大宮姫がここに船がかりの間、お供の者たちは、何とかして姫のつれづれを慰めようと、大変な気のつかいようでした。ななぜならば、 姫は船の上でも常 に別れて来られた帝のことを思い出しては、悲しさ、さびしさに堪え切れない様子でしたが、旅の間は外の眺めもうつり変わりがあり、泊 りの港々のめずらしさ にとりまざれることもあったのですが、牟瀬に着いてからは、周りの景色も見馴れて変わりばえもなく、ここで長い月日を過ごすというこ とは、つい思い出すこ とは、帝のことのみでありましよう。

志多羅歌(しだら節)

お供の人々はいろいろ協議の末、志多羅歌とその舞いを考案したのです。
ある日、みんなはその歌舞でお慰めしようということで、それごれ異様な扮装をして、手を振り足を踏みならして、おもしろおかしく舞い 歌って騒ぎたてたものです。それをごらんになった姫は、久しぶりに憂さを忘れたように、うち興じられたということです。

枚聞神社の祭典のうち、霜月四日の朝祭りは、大宮姫が山川牟瀬浦着船の記念祭でおり、二月四日の朝祭りは、開聞山麓の仮御殿御着の 記念祭であると伝 えられておりますが、神社ではこの二つの祭典の日は、東長庁で種々の装束、種々の狂舞や音楽など奏して、当時の船中の模様を偲ばせる ものであったそうで す。したがって、志多羅歌や舞いなどがあったのだろうと思われます。でも今は祭典にこの行事は残っておらず、志多羅節として郷土民謡 が伝えられているのみ です。この志多羅節さえ、今は歌える人は川尻の丸山エイさん1人だけですが、この人も老令のため声量が続かず、このまま絶えてしまう のではないかと思われ ます。この歌が一般に歌い継がれて来なかった理由の一つかと思いますが、丸山エイさんの話によると「この歌はいつでも、どこでも歌う 歌ではなく、高貴の方 の前だけで私も歌って来ました」というほどですから、あまりに勿体ずけてひろまらず、一部の人が歌い、一部の人が聴いた歌といえるの ではないでしょうか。 こうした歌が郷土から絶えることこそ、まことに勿体ないことです。         ゛

    志多羅節
 京から雀が三つつれで
 また三つつれで六つつれで
 先なる雀もものいわず
 後なる雀もものいわず
 中なる雀がいうことに
 おらが つぼね(局)は細けれど
こがね(黄金) やりど(道戸)の玉すだれ
いんい(戌亥‐幹)の隅(北西)にカメすえて
カメのまわりにヨシ植えて
よしやしげいな こぞ(昨年)より今年はなおよかろうよなー-   (以下略)

こんごせ(皇后瀬) こごら(皇后未)

開聞山麓に、大宮姫のために新築中の仮御殿が出来あがったので、姫は牟瀬浜から船で開聞崎を廻って、脇浦のこんごぜ(皇后瀬)の崎 からこごら(皇后 来)の入江に着船、姫はこの地に一泊、翌二月四日に新御殿に着かれたのです。この御殿を「京殿」といいます。現在の京田の地であると いわれます。

かめわれ坂(甕割坂)

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さて、大宮姫が伊勢の阿濃津を船出し、摂津の沖で帝のお履を海に投げ入れると、たちまち二羽の鴎になり、後にはこれが二つの酒甕に 変わって、浮きつ 沈みつして姫の船の後をついて来たのですが、山川牟瀬から、姫は海路を開聞へ向かったのに、どうしたわけか二つの酒甕は、陸路をとっ てごろごろころがって 開聞へ向かいましたが、中の一つが山川の坂道で割れてしまい、一つだけが開聞に着いたのだそうです。一つが割れた坂を今「甕割坂」と いっています。開聞に 着いた甕というのが、枚聞神社の御神殿内陣の扉のわきにすわっているものでしたが、今はどうなっているのか知る由もありません。

喜入と湯豊宿(指宿)

歴史の上では、天智天皇は天智天皇10年12年3日崩御となっていますが、この伝え話では、天皇はその後薩摩路へ行幸、開聞へおい でになったことに なっています。どうした矛盾でしょうか。でもこの話では、ありそうでないことでありながら、またあリ得ることでもあって、志布志方面 にも天皇行幸伝説とし て残っておりますから、こっちの伝説としても伝えておきたいと思います

天皇はその日、腰に一振の宝剣を帯びて、白毛の愛馬にまたがり、おしのびで山階山(やましな山)に出かけられたまま、行方知れずに なってしまいまし た。宮中では上を下への大騒ぎ、百官手分けをして探したが、心あたりのどこにもお姿が見えない。やっと山階山の山中に天皇のお沓が落 ちているのをみつけ、 ここを崩御の場所として御陵を造っておまつりしたのだそうです。そういうところからこの話はうまれたのだろうと思います。

天皇はそれからどんな道順をとられたかわかりませんが、戒る日突然、筑前の太宰府に姿をあらわされ、それから海路をとって、日向の 国来島と志布志の 中間にある一漁村にお着きになったという話と、山階山から大和の国の古宮においでになり、翌年丹波の国に行幸になり、苅萱の関に仮宮 殿を建てておいでに なったが、しきりに大宮姫をおしたいになり、池田、有馬等四家供奉して、摂州難波津から船で薩摩に向かわれ、志布志と櫛間(来島、福 島と同じ)の間の一漁 村にお着きになったという話の二つがあります。
こうしたことから志布志方面に、天皇についての伝説や遺跡があるのでしょう。      

天皇は志布志にしばらく滞在され、ここで開聞の事情をくわしく知りたく、一老人に開聞への道をおたずねになったそうです。老人は 「ここから南西の 方、海路三十里ばかりのところ」と答えたというのですが、なお陸路をたしかめ、教わった通り、松山街道を末吉から国分、鹿児島、谷山 と、開聞への道を急 ぎ、谷山の高台からはじめて開聞岳を遠望され、嬉しさのあまり馬に一と鞭あてて、一気に海辺の里に出られたところが「喜入」という名 で呼ばれるようになっ たところだそうです。喜入からは海沿いに馬を進められて、間もなく出湯の里に着き、ここを「湯豊宿」とと名付けられたそうです。
 
指宿(湯豊宿)には既に大宮姫がお待ちしておられたので、どちらも夜ごとの夢にさえおしたいの仲でしたから、たとえようもない嬉しい 再会であったろうと察せられます。
そこでお二人は、この温泉郷にしばらく御滞在の上静養されることになったといいます。

御滞在の所が、今の指宿神社のあたりであったということです。指はずっと後のことになりますが、指宿神社は開聞新宮九社大明神とい い、枚聞神社は開 聞岳噴火の時、ここに仮宮を建て避難遷宮されましたが、噴火がおさまると、元の鳥居が原の社殿は焼失埋没していたので、現在の地に新 築されたのだそうで す。その後指宿の仮宮の跡地に神社を建てて、本宮に対して開聞新宮と呼び、天智天皇をお祀りしたのだということで、枚聞神社ど全く同 じ造りであることが注 目されます。

宮十町という地名

天智天皇は大官姫とともに、指宿にしばらく滞在されましたが、開聞の離宮に入られたのが5月5日とされております。
白鳳元年の春、九州諸司に宣下して、江州志賀の皇居に似せて造営されたのが、この離宮といわれる宮殿で、その宮地の広さは方十町(十 町四方――約一キロ四 方)その広大な宮地の中に宮殿棲閣、その他宮舎など屋根を連らねて、その壮観にたとえようもなく、人々はこの宮殿のことを内裏とも、 離宮とも呼んでいたと いうことです。古く宮十町といわれた起こりです。神社かいわいを宮十町村といって独立した村であったこともありますが、後、仙田村の 内脇、入野、物袋を合 併して十町村として行政区を作っていたのが、頴娃村という大行政区がしかれるようになって、十町区となったのです。

「白鳳2年5月5日鳥居ケ原に洞院内裏を造営して此の離宮に御座す云々」と書いた古い書物がありますが「内裏」といい「離宮」と いった言葉の根源か と思われます。これからみると御殿は鳥居が原に建てられたものと思われます。そこで、この離宮に天智天皇が入られるとともに、大宮姫 も京殿(京田)をひき あげて、天皇とご一緒になられたのです。

大宮姫が京殿を引きあげて、鳥居が原の新御殿に、帝とご一緒にお住まいになるようになった京殿は、法華寺というお寺になり、月毎の 十八日に衆僧が寄 り集まって修行する場所となったということです。寺地の四方に五輪石塔を建てたということですので、京田の部落や山野を探がしてみま したところ、部落東は ずれの山中に一基の大五輪塔が完全に立っており、部落西はずれの畑の中に、畑境界石に使われている同じ大きさの五輪塔が、ばらばらに 発見されましたが、後 二基がわかりません。この二基の石塔を一線として北へひろがっていたものか、南へひろがっていたものかはわかりませんが、両石塔の距 離からみて、京田部落 全体が寺地内にすっぽりはいるような、広大なお寺であったと想像されます。古い本に「……寺北の四方に五輪石塔を建つ。今の経殿村こ れなり。初め京殿、後 京田と書く」とあるところから、仮御殿時代は「京殿」法華寺となってから「経殿」それから後今の「京田」というようになったことがよ くわかります。

鳥居ケ原

画像の説明

岩屋に続く南の台地を「鳥居ケ原」といいます。大正末期まで、この台地の一部は開聞小学校の学林地で、一部造林をせずに芝生を残 し、校外運動場とし て、11月12日の学校記念日には、ここで秋季運勤会を催していました。現在と異ってその頃まではピストルが無く、猟銃をもって出発 の合図をしていまし た。出発係の先生は、白ズボンに黒の脚袢、黒足袋穿きで、肩に銃の台尻をあてて空へ向かって空砲を撃って、各競技を出発させていまし た。この地一帯、貞観 の大噴火以前まで、枚聞神社があったところといわれ「鳥居が原」の名があるのです。その一部の土地にこの度統合された開聞中学校が建 つことになったのです が、その整地の時、直径約三十センチ位の円い穴が、底深くあいているのが見つかったので、神社建物の柱の跡か、古代樹木の焼け跡では あるまいかと、調査し たのですが、不明に終りました、何分にも表土の下は火山灰の凝結した厚いコラ層を成し、その下は砂礫や火山岩などがあってヽ砂礫は山 中にしみた地下水に よって流されたもののようで、空洞化していることが、その円い穴を調査してみてわかりました。前にも書いたように、天智天皇の離宮も 鳥居が原に建てられた という伝説もあり、岩屋仙宮としても、幾多の草庵、瑞照寺、観音堂などもあったというのですから、このあたりには大小の建物があった ものではないかと思い ます。でもそれらはみんな、噴火のために焼けたり、熔岩や火山灰の下に埋まってしまったことでしょう。

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