「大長」末の騒乱と九州王朝の消滅

「官軍雷撃、凶賊霧消」記事の真相

川西市 正木裕

I 、「大長」年号と九州王朝の消滅

 最後の九州年号「大長」が、慶雲元年(七〇四)から和銅五年(七一二)の九年間続く事は、既に古賀達也氏が明らかにされている。またこれは、律令 制度の施行による近畿天皇家の全国支配が進む中でも、九州王朝は何らかの形で存在したことを示すものと考えられる。また、中村幸雄氏や古賀達也氏は 「隼人の乱」等の分析から、最後の九州王朝は薩摩・大隅の南九州の地方政権として残っていた、そして和銅六年(七一三)の大隅国設置と征隼人将軍らへ の大量の恩賞は、大長年号の終了とともに「国」としての九州王朝の消滅を意味するとされた。 (注1)
■『続日本紀』(以下「続紀」)和銅六年(七一三)夏四月乙未(三日)、(略)日向国の肝坏(きもつき)、 贈於(そお)、大隅、姶羅(あひら)の 四郡を割きて、始めて大隅国を置く。大倭国疫す。薬を給ひて救はしむ。

■秋七月丙寅(五日)、詔して曰はく、「授くるに勲級を以てするは、本、功有るに拠る。若し優異せずは、何を以てか勧獎めむ。今、隼の賊を討つ将 軍、并せて士卒等、戦陣に功有る者一千二百八十余人に、並びに労に随ひて勲を授くべし」とのたまふ。

II 、消された「九州王朝討伐戦」

  「官軍雷撃、凶賊霧消」記事

 ただ、肝心の「九州王朝討伐戦」について『続紀』は何ら記してはいない。しかし、実は、この直前の和銅五年から六年にかけて薩摩・大隅に大変動が あったことを暗示する記事が『続紀』にある。それは「官軍雷撃、凶賊霧消」論奏記事だ。
■『続紀』和銅五年(七一二)九月己丑(二三)日に、太政官議奏して曰さく、「国を建て疆を辟(ひら)く ことは、武功の貴ぶところなり。官を設け民を撫づることは、文教の崇ぶるところなり。其の北道の蝦狄、遠く阻険を憑(た の)みて、実に狂心を縦(ほしいまま)にし、屡(しばしば)辺境を驚かす。官軍雷のごとくに撃ちしにより、凶賊霧のごとくに消え、 狄部晏然にして、皇民擾(わずらは)しきことなし。誠に望まくは、便に時機に乗り、遂に一国を置きて、式(も ち)て司宰を樹(た)て、永く百姓を鎮めむことを」とまうす。奏するに 可としたまふ。是に、始めて出羽国を置く。
 これは一見蝦夷討伐と出羽国設置についてのみの記事のように見えるが実はそうではない。蝦夷討伐記事は和銅二年(七〇九)以降は見受けられないか ら、「官軍雷撃、凶賊霧消」は三年も前のことを「時機に乗り」と述べた事となる。

 隼人討伐は和銅五年

 一方、先述の隼人征伐は、次の理由でちょうどこの太政官議奏の時期にあたると考えられる。大隅国の領域は隼人の居住地域であるから、「隼の賊を討 つ将軍」等への恩賞は、和銅六年四月の大隅国設置に先立つものであることは疑えない。和銅二年の蝦夷討伐(三月)から恩賞(九月)までは約七箇月か かっている。この例から見れば、征隼人将軍等への恩賞が七月で大隅国設置が四月だから、隼人討伐の時期は前年(和銅五年)、それも南九州という地理条 件、正月を挟むこと、恩賞の規模が示すような大規模な戦闘であること等を考慮すれば、秋ごろと考えるのが常識的だからだ。

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 そして出羽国設置に関して、岩波『続紀』の注では「国の廃置は論奏でおこなわれる(公式令3)」とある。出羽国設置の論奏がある以上、この直後の 大隅国についての論奏もあったはずだ。しかし記事はない。つまり大隅国設置の論奏は『続紀』から「カット」されたということだ。そして一千二百八十余 人もの授勲は、隼人討伐戦の規模の大きさを物語るが、この戦の記事も同様に「カット」されている。
 しかも和銅五年九月に「天下大赦」と諸国の税免除記事がある。その理由が「子年は稔がよくないのに、今年はよく稔った。しかも黒狐が献上されたのは 上瑞で『王者の治、太平を致せば見る』からだ」というのだ。黒狐がもたらす「王者治、致太平」が具体的に何をさすのか不明確であるし、「子年うんぬ ん」は大規模な特赦の根拠としては薄弱としか言いようがない。真の理由は隼人=九州王朝を最終的に滅ぼした事だったが、それは「カット」されたのでは ないか。 (注2)
 和銅五年の「官軍雷撃、凶賊霧消」論奏は、本来蝦夷討伐と出羽国設置のみならず、和銅五年(七一二)に遂行された隼人=九州王朝討伐と、その後の大 隅国設置をも含んだ論奏だったと考えられる。しかし、そこは隼人討伐戦や大赦の真相とともに正史から「カット」されたのだ。天下の権を左右する一大決 戦を「単なる蛮民の騒乱」と扱う事で、九州王朝の存在を消し去るために。 (注3)
 大隅国設置と同時に九州年号「大長」も消滅する。南九州の一隅に地方政権としてかろうじて命脈を保っていた九州王朝も、その「領土・領民」を失い、 「国」としては完全に消滅したのだ。

 

(注1) 古賀達也「続・最後の九 州年号 -- 消された隼人征討記事」(『古代に真実を求めて』第十一集・二〇〇八年四月)中村幸雄「九州王朝の滅亡と『日本書紀』の成立」(市民の古代十二集・一九九〇年十一月、中村幸雄論集・HP 新・古代学の扉掲載)。
 同氏らは、九州王朝の残存勢力は、その後も薩摩・大隅の一部に依拠する「隼人」として、近畿天皇家への抵抗を続けたとされている。

(注2) 和銅五年(七一二)九月己巳(三日)(略)又詔して曰はく「朕聞かく、旧老相伝へて云はく、『子の年は穀実(みのり)宜駆らず』といふ」ときく。而るに天地祐を垂れて、今 茲(ここ)に大きに稔れり。古の賢王言ひしこと有り。「祥瑞の美も、豊年に加ふることなし」とのたまへり。況や復、伊賀国司阿直敬らが献る黒狐は、上 瑞に合へり。其の文に云はく、「王者治、太平を致せば則ち見(あらは)る」といへり。衆庶とこの歓慶を共にせむことを思ふ。天下に大赦すべし。
 なお「今茲に大きに稔れり(豊作)」とするが、直前八月庚子(三日)の条に「諸国の郡稲乏少にして、給ひ用ゐる日、廃闕を致すことあり」とある。 「郡稲」は出挙用で、春なら種籾用だろうが、旧暦八月なら百姓の救済目的か、「利稲(利子)」返済が滞ることによる郡稲不足への対応と考えられ、いず れも「豊作」と矛盾する。

(注3) ちなみに和銅五年(七一二)正月二十八日の太安萬侶の『古事記』献上も『続紀』からは完全に「カット」されている。このように記録としての価値を認められている『続紀』に も、恣意的な編纂があることは歴然としている。