『続日本紀』「始めて藤原宮の地を定む。」の意味

川西市 正木裕

I 、不可解な藤原宮記事

 続日本紀慶雲元年(七〇四)十一月二十日条に、藤原宮に関する記事が掲載されている。
■始めて藤原宮の地を定む。宅の宮中に入れる百姓一千五百五烟に布賜ふこと差あり。
 藤原宮については、日本書紀の持統八年(六九四)十二月六日条に遷居記事がある。遷居以前の建設状況も書紀に逐一記されている事や、藤原宮出土木簡 から、この記事の信頼性は極めて高い為、遷居十年後に再度「宮地を定む」との記事は何とも不可解と言わざるを得ない。

 

II 、画期的な西村解釈

 この記事につき、当会の西村秀己氏が、九州王朝説の立場から、古田史学会報に於て画期的な解釈を提起している。氏は、西暦七〇一年に日本列島を代 表する王者が九州王朝から近畿天皇家に変わったのが史実であるという古田説の立場から見て、「史実上の初代天皇であり、古事記の第一読者である元明の 息子たる文武が古事記序文に登場しない」矛盾を指摘し、「序文に記す削偽定実の詔勅を出し『歳大梁に次り(酉年)、月夾鐘に踵り(二月)、清原の大宮 にして』即位した天皇」は文武であるとした上で、次の様に述べる。

○六九四年の藤原京遷都は倭王(九州王朝の天子=筆者注)のためのものではなかっただろうか。ここに、ひとつの史料根拠がある。
「始めて藤原宮の地を定む。」《続日本紀慶雲元年(七〇四年)十一月二十日条》
 この条に通説学者たちは大いに悩んだらしく、新日本古典文学大系の当該条脚注には、「遷都後一〇年を経て宮の地を定むとするのは、不審」とあり、ま たその補注には、「つまり、天武朝もしくは持統朝に横大路・山田路および中ツ道・下ツ道に囲まれた地域を藤原京として設定したが、京内の整備は完了し ておらず、慶雲元年にいたって最終的な整備に着手したのが本条の記事であると解することも、不可能ではないように思われる。」と、苦しい解説を加え る。
 だが、「と解することも、不可能ではないように思われる」などは既に学問上の言語ではない。本条が文武の藤原京遷都記事であるならば、答は明快であ り古事記序文と矛盾しない。すなわち文武は藤原宮ではなく「清原の大宮」で即位したのである。 (注1)

 西村氏は「藤原宮は九州王朝の為の宮であり、そこには九州王朝の天子がいた。古事記序文に記す『清原の大宮』で即位し、古事記編纂を命じた、通説 で『天武』とされる傑出した天皇は『文武』のことである。そう解釈しなければ元明に奏上される古事記序文に文武が欠落することの説明ができない。」と 主張されている。(筆者要約)


III 、『開聞古事縁起』が語る九州王朝の天子

 注1に掲げる古事記の即位年月に関する文言が直ちに文武を指すかは別として(注2)、 こうした「藤原宮は九州王朝の都」という西村説を補強する資料がある。それは『開聞古事縁起』(以下『縁起』)中の「天智天皇」に関する伝承だ。

■『開聞古事縁起』(延享二年〔一七四五〕、開聞神社瑞応院三七世快宝法印)
一、天智天皇出居外朝之事
越仁王三九代天智天皇別離心難堪、溺愁緒之御涙、思翠帳紅閨隻枕昔歎二世眤契約蜜語空於発出居外朝御志而不幾時、 同十年辛未冬十二月三日〈大長元年尤歴代書年号〉帝帯一宝剣、騎一白馬潜行幸山階山、終无還御。 凌舟波路嶮難、如馳虚空、遂而臨着太宰府、御在于彼。越月奥於当神嶽麓欲営構離宮。故宣旨九州諸司也。〈 〉は右注
一、皇帝后宮岩隠之事
文武帝慶雲三(七〇六)丙未(午の誤りか)春三月八日天智聖帝天寿七十九於此崩御。於仙土陵当神殿也。阿弥陀如来示現帝皇也。(略)
不幾年其翌年之元明帝和銅元(七〇八)戊申歳六月十八日皇后御寿五十九薨御也(注3)

 この資料は薩摩(鹿児島県)開聞神社の「大宮姫伝説」を記すものだが、最後の九州年号たる「大長」が記されていることでも知られている。書紀の 「大化」は六四五年から六四九年までだが、九州年号「大化」は六九五年から大宝三年(七〇三・大化九年)までで、七〇四年から「大長」年号が始まる。 (注4)
 『縁起』では、「大長元年(七〇四)」に「天智天皇」が都から大宰府に移り、その後慶雲三年(七〇六)七九歳で薩摩頴娃郡で逝去している。これは六 七一年崩御の「天智」であるはずもなく、古賀氏は「『天智』と書かれている人物も九州王朝の王であると考えるべき」とされている。(注 5)
 『縁起』中、「十年辛未冬十二月三日」は書紀に記す天智の崩御日(天智十年同月同日)で、書紀記事からの引用であることは疑えない。一方、右注の 「大長元年」は何らかの九州年号による原資料に依拠したものだ。何の根拠もなく「大長元年」という日付記事を創作することはありえないからだ。であれ ば「同十年」とある「同」も、実は「天智」ではなく「大化」だったこととなる。何故なら九州年号「大化十年」が「大長元年」にあたるからだ。逆に言え ば、「天智」と書かれた理由は、彼が「十年崩御」で、「大化十年」に大宰府に帰還した天子の縁起と接続できたからなのだ。
 従って『縁起』記事の真実は、
(1) 九州年号による資料で「大化十年=大長元年」に大宰府に帰還した天子が存在した。
(2) 『縁起』編者は、書紀では「天智」が十年に崩御しているので、これを天智と見立てた。
(3) しかし、慶雲三年に天子が崩御するなど記事の内容は九州年号資料がそのまま残された。

と考えられるのだ。
 九州年号資料に「大長元年大宰府に帰還し、慶雲三年に崩御した天子」とあるなら、それは疑いもなく九州王朝の天子となろう。「出居外朝」とあるが、 大長元年(七〇四)時点での「朝(宮殿)」は「藤原宮」だから、彼は藤原宮から大宰府に帰還したこととなる。
西村解釈は正鵠を得ていたのだ。

 

IV 、大長元年に文武は藤原宮(内裏)の主となった

 そして続日本紀に文武が「始めて藤原宮の地を定む」とあるのは慶雲元年(七〇四)十一月二十日条で、『縁起』に「天智大宰府帰還」と記す大長元年 (七〇四)にあたる。これは、九州王朝の天子が宮を追われ大宰府に移ることに伴い、文武は正式に藤原宮、それも内裏の主となったことを示すものではな いか。「宅の宮中に入れる百姓一千五百五烟(戸)」という数字の具体性は、藤原宮(京)中に既に一五〇五戸の住居が存在していたことを示している。そ して住民がいたなら、藤原宮の主もいたことは必然だろう。これは権力の所在とは別問題だ。
 西村氏は先の会報で、文武は七〇一年に九州王朝から「禅譲」を受けたとする。「禅譲」と言う言葉の実質や、その時期の当否は別として、政権を掌握 し、朝堂院・大極殿で政を司っても、「先の天子」が「朝(内裏)に居」している間は「宮の主」とはいい得ないだろう。 (注6)
 宮城に住む千五百五戸にわざわざ布を配ったのは、藤原宮(内裏)の「主」が替わったその祝いとしか考え難い。有体に言えば文武の藤原京の住民への 「引越しのあいさつ」だったのだ。そして、翌慶雲二年(七〇五)正月丙申(十五日)に、「宴を文武百寮に朝堂に賜ふ」(『続紀』)とあるが、これは、 名実共に「藤原宮の主」となった文武の初の大規模な祝宴と考えられる。
 同年四月、「大宰府に飛駅の鈴八口、伝符十枚を給ふ。長門国には鈴二口」(公式令では大宰府の鈴は二十口だから、八口はこれに加え給付したと考えら れる)とあるのは、去り行く九州王朝の天子への、せめてもの餞だったのかもしれない。

 

V 、九州王朝最後の天子と皇后、臣下の運命

 九州年号大化期に近畿天皇家は九州王朝からの「禅譲」後、建郡の詔勅を始め「大化改新」とされる様々な改革を行い、律令の整備など一元支配体制を 整えていった。ただ、「禅譲」である限りは、実権はないものの先の天子(九州王朝の天子)も存在していたはずだ。九州王朝の官僚群は、近畿天皇家の指 揮下に組み込まれつつも、天子を一挙に捨て去るのに抵抗感を抱いた事は想像に難くない。
 書紀大化末(五年・六四九)の蘇我倉山田麻呂の謀反が、九州年号大化末(九年・七〇三)の九州王朝系の重臣の粛清である可能性については、既に会誌 で報告したところだが、(注7) 近畿天皇家は、いわば抵抗勢力たる九州王朝関係者や官 僚を機会あるごとに排除していったのではないか。
 山田麻呂が末期に及んで「願はくは、我、生生世世に、君王を怨みじ」と言ったのは、時代の必然をよくわきまえており、こうした近畿天皇家の理不尽な 言いがかりにも抵抗できないほど無力となった九州王朝の天子(君王)を、今更怨むつもりはないと述べたのだ。
 この事件を契機に藤原宮から大宰府に追われた九州王朝の天子は、七〇四年に年号を大長と改めたが、慶雲三年(七〇六)、薩摩の地において波乱に満ち た生涯を閉じた。その二年後の和銅元年(七〇八)、最後の皇后「大宮姫」も彼の後を追い、九州王朝は崩壊することとなる。 (注 8)

 

(注1) 西村秀己「削偽定実の真 相 -- 古事記序文の史料批判」(古田史学会報六八号・二〇〇五年六月)
 文武即位は丁酉(六九七)年八月。但し西村氏は「大宝」建元が文武五年(七〇一)三月であることから、九州王朝からの禅譲による「二回目の即位」は 同年二月であるとされている。
■(古事記序文)歳大梁(たいりょう=酉年)に次り、月夾鍾(きょうしょう=二月)に踵(あた)り、清原の大宮にして、昇りて天位に即きたまひき。

(注2) 結果として「文武」を暗示する文言であるが、文武の賞賛が欠落し、古事記も文武の指示による編纂であると書かなかった理由は、西村説をもってしても不明。古事記の上程され た和銅五年(七一二)は九州年号「大長」九年であり、編纂は九州王朝存続期間であることと関係するか。今後の検討課題。

(注3) 山岳宗教史研究叢書十八・修験道資料集II・五来重編・名著出版五九・十二・二五
 なお、「騎一白馬潜行幸山階山、終无還御」とあるが、『扶桑略記』(十一世紀末頃成立)には「一云 天皇駕馬 幸山階郷* 更無還御 永交山林 不知崩所 只以履沓落處爲其山陵 以往諸皇不知因果 恒事殺害」とある。こうした伝承よりの引用か。
郷*の別字。JIS第三水準ユニコード9115

(注4) 「大化・大長」年号の期間は古賀達也氏による。「最 後の九州年号 -- 『大長』年号の史料批判」(古田史学会報七七号二〇〇六年十二月)

(注5) 古賀達也「よみがえる古伝 承・最後の九州王朝・鹿児島県『大宮姫伝説』の分析」(市民の古代 第一〇集一九八八年。市民の古代研究会編・特集二)

(注6) 「禅譲」としても、事実上は強制されたものだろう(「簒奪」ともいえる)。中国では後漢献帝(魏の文帝に禅譲)、後周の恭帝(北宋の太祖に禅譲)が強制的に「禅譲」させら れた後も殺害(自害)なく余生を送っている。

(注7) 拙著「藤原宮と大化改新」(『古代に真実を求めて』第十二集二〇〇九年。古田史学の会編・明石書店)

(注8) 「七九歳」で崩御とあるのは推古三四(六二六)誕生とされる天智にあわせたのか、九州王朝の天子がそうだったのかは不明。また、崩御後も大隅国設置までの間「大長」年号が 続いたこととなる。これは、次代の天子により行われるべき「改元」が不可能であったため、「国の消滅」まで引き続き使用されたものか。今後の検討課題 とする。