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女王国 ( 耶馬壱国は どこか )          
上の 表題で お分かりのように、この 一文は 古田武彦さんの 論証に 負っている。
卑弥呼の墓探し に 始まって 四〇数年、古田さんの 著作に 出会ってからというもの、いつも 新しい提起を 心待ちにし、痛快な 議論に 感嘆し 喜びを 共にしてきた。
しかし、九州王朝説 など 未だに 主流となれず、無視されてきているので、生い先も見えてきた 私として、その 理解を、未熟を恐れず 記す ものである。

ヤマタイ論争 の 中心は、女王国は どこにあったか、ということである。 親魏倭王の 金印を 貰った 238年 頃の 倭国の 状況を 考えることになる。
ご存知のように、魏史倭人伝には、
『 東南陸行 五百里 到伊都國 有千餘戸、  世有王 皆統屬女王國 郡使往來 常所駐、
   東南 至奴國 百里 有二萬餘戸、  東行 至不彌國 百里 有千餘家、
   南 至投馬國 水行二十日 可五萬餘戸、  南 至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
   可七萬餘戸 』
とある ( 官名部分は 略している ) 。

帯方郡使が 留まる 伊都国から、東南へ 日向峠を越えると 人口 二万余戸の、奴国、吉武高木・ 須玖岡本 の 地である。
伊都国から 東に 周船司を抜ければ 不弥国で、ここから、狗奴国に対する 同盟を結んでいた 筑後にある 投馬国に 行ける 海路となる。
奴国は 不弥国の すぐ南にあたるわけで、人口が 七万戸にもなる 邪馬壱国、その 女王が 居住している。 状況を 要点で言う - 女王国の 本拠地は かの 歴史ある 奴国である と。

古田学説によれば、ニニギたちが 筑前の 稲作地帯を 支配したのは 紀元前 200年 頃、神武たちが 近畿銅鐸圏へ 侵入したのが 紀元前後の 頃、である。
卑弥呼が 活躍したのは、それより 更に 200年以上 後代 で、新進で 国際的 だったのでは。

やがて 耶馬壱国は 投馬国を 併せ、倭国を 代表して、太宰府に 都を 置き、倭王武に 至って、中国南朝から 離れ、天子の年号 継体 を 始める。 517年 のこと である。
しかし ついに 663年 には、唐・新羅 の 連合軍と 白村江で 戦うことになり、倭国王子 薩夜麻 は  囚われの身 となる。 ここに、もともと 分派であった 神武系統の日本国 が、唐と結んで 倭国進駐に 加担し、701年 には、唐の制度を 真似て 律令国家を 成立させる 流れとなる。
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